校則を無くしていった中学校の話

たまたま地元(近く)の中学校の話というのもあるが、これに関する記事やTweetのいくつかをxつ読んで思うことがあったので、自分の考えを残しておきたいと思う。

今回思うことは4つ。

1. 「議論の結果」(誰による議論の結果だったのか)について

そこから始まって、同じように「なぜ決めなければいけないのか」を一つひとつ論議していったのだ、そうしたら校則がなくなってしまったのだ。校則を廃止するのが前提だったわけではなくて、ほんとうに必要な決まり事なのかを考えていった結果、「いらない」となったのである。

校則がなくなったのは議論の結果だという事ですが、「校長と教員達の」議論の結果だったのか、「生徒も巻き込んでの」議論の結果だったのかが気になります。
2. 押し付けられた義務や立場や環境では無く、自主的に選択したり理解し納得した義務や立場や環境が自身を成長させること
立場が人を作る、とよく言われる。
規則を無くした表面上の自由の裏側にある責任、その何たるかを自覚した時、その自覚した責任ある立場が自分の考え方や行動の規範を変え、成長に繋がっていくのだろう。
3. 議論の結果を記録し後世に残す/伝える事の重要さについて

「なぜダメなのか」と問うと、答えられない。校則で決まっているけど、なぜ決まっているのか、実は誰も理由を答えられないのだ。

何故かを問うて理由が分からない規則は廃止、という流れ自体は良いと思う
「規則の根拠、理由を考える」->「理由が分からない」->「ゼロベースで本当に必要なのかについて考える」->「必要な理由が見つかれば規則の維持」or「理由が見つからないので規則の廃止」

ここまでの話のように読み取れるが、さらに踏み込んで
規則を作成する時には、その論拠を、「議論の過程を記録に残す事の重要さ」についても生徒たちに伝えて欲しい。

学校、会社、家庭、親族、地域社会、産業、国家、人類全体などあらゆる規模のコミュニティにおいて、社会や文明が発達してきたのは、過去から未来への、先達から後続者達への知識や技術などの伝達があったからに他ならない
技術や文化や文明が途絶えるのはその伝達が途切れた時。

だからこそ文字や書籍、活版印刷やインターネット、ジャーナリズムや民主主義の発明などが文明の発展に寄与してきたといえるし、非民主主義的で封建的な政治体制、言論の自由の抑圧、焚書や民族浄化などが同じ文脈で非難され得るわけだ。

何故民主主義社会では議論や会議の議事録を残すのか(オマケ的に何故ギリシャやローマの文明が優れていたのか等も)、その理由や重要性についても理解できるようになるだろう。

4. 多様性や進取の精神、批判や議論の重要性について
>「ダメだと云われることを前提にしていると、子どもたちは何も云わなくなる。新しいアイデアもだそうとしない。それでは、得るものが何もない。やって失敗したら『次はこう工夫してみよう』となるじゃないですか。それでこそ得るものがある」

日本は地政学的には集約型の農耕が発展して以降の人的流動性が低く、歴史的には封建的な時代が長く、文化的にも政治的にも国民の多くは受動的で自立性や多様性に欠ける社会だということができる。
封建的で均質性の高いコミュニティでは、出る杭は打たれる、新規性や個性を褒めるよりも否定し、粗を探すような保守的な文化が育つ傾向がある。
だからこそグローバル化が進む現代においては日本の教育や国民性は多くの指標で評価が低くなっているともいえるのだろう。

そういった文化の中では以下のような考え方が育まれてきたようだ。

「意見を主張して目立ちたくない(目立って叩かれたくない)」
「(個人レベルでは)議論は喧嘩みたいだから嫌だ」
「議論の目的は集団が一つの意見に同意して全会一致する事」
「世の中には正義や真理が一つだけあって、他は間違っている」

民主主義の真髄は、異なる価値観が異なるまま共存、並存することにある。
確かに意見や価値観が統一された集団、同じ方向を向いた個人の集合は、ある目的だけに特化して進む時には最大の効率を生み出すだろう。
開戦後の太平洋戦争などがいい例だ。

しかし、ゴールが移動したり環境、風向きが変わった時には対応力に劣る傾向があったり、最高か最低、1か0、all or nothing 的な傾向も持つ。

民主的、多様性の担保された社会や集団は、効率面で劣ることも多いが、有機的で変化に強く多様な環境にそこそこの効率で対応できたりするし、全滅、壊滅的な結果を回避する能力が高い。

そのような多様性や民主主義的な社会を成立させる為には議論は必須であるが、日本人は議論についてきちんとした教育を受けている人は殆どいないように思えるし、政党政治や多数決の論理についても誤解しているように思える。
現実的な制約の元に意見を統一しなくてはならない時のルールとして多数決というシステムを採用するだけで、議論というのは本質的に意見の統一のためにするのではなく、異なる考え方の理解の為にある。

また、議論の話をするならば、批判というものに対しても誤解が蔓延しているように思える。
批判は非難ではなく、攻撃でもない。
健全な議論には健全な批判(の精神)が必須で、そのような議論の経験、多様性の尊重の本当の意味、善意解釈の原則などの議論の前提となる考え方の共有がなければ民主主義というものは成り立たないだろう。
その点で日本の社会、文化、教育は明治時代から殆ど全く先に進んでいないように思える。

 

この記事の元となった記事

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